編纂者註 – 段ボールPC未来創造館宗教史試論

著者まえがきが十分に示しているように、本書は、失われた工業製品、技術継承、設計思想、美意識の断絶といった、いかにも真面目そうな問題意識から出発している。

その点自体は、編纂者としても否定しない。

実際、一定の製品や技術が市場から姿を消したあと、それらをどのように記録し、どのように語り継ぐかという問題は、単なる趣味の範囲に閉じるものではなく、文化的記憶の保存という意味でそれなりの重みを持っている。

著者がそこに関心を抱いたこと自体は、別に特別なことではない。

ただし、その関心がそのままの形で本書へ持ち込まれていると理解するのは、やや危険である。

著者はしばしば、問題意識を足場にして、その先を必要以上に遠くまで歩く。しかも歩いたあとで、その道のり全体に最初から意味があったかのような顔をするのである。

そのため、本書に含まれる記述のうち、少なくとも一部は、記録というより後付けであり、整理というより増築であり、検証というより思いつきの延長に近い。

編纂者としては、その点について先に一度、冷ましておく必要があると判断した。

本書は、技術史ではない。

少なくとも、素朴な意味での技術史ではない。

また、宗教史でもない。

少なくとも、既存の学術的枠組みでそのまま扱える意味での宗教史ではない。

かといって完全な創作とも言い切れない。

実在の製品名を想起させるもの、実際の技術的語彙、もっともらしい制度や設備、断片史料のように見えるもの、妙に具体的な失敗談、そうしたものが混在しているからである。

したがって読者には、本書を最初から最後まで、事実か虚構かの二択で読まないことを勧める。

むしろ、人が何かを過剰に惜しみ、そこへ意味を与え、やがて体系だった物語にしてしまう過程そのものを読むつもりでいたほうが、おそらく実態に近い。

また、本書においては、実在の企業名、製品名、団体名、制度、技術語が、意図的にぼかされたり、逆に妙に生々しく残されたりしている。

そこには一貫した厳密性があるというより、著者の熱量と編纂者の抑制がせめぎ合った痕跡がある。

読者がその点に若干の不揃いさを感じたとしても、それはたぶん気のせいではない。

ただ、それも含めて本書の性質である。

編纂者としては、全部を均した結果、妙なものが妙なまま立ち上がってくる感じまで消してしまうことのほうが惜しいと判断した。

以下に続く本文には、いかにも荘厳な言い回しが頻出する。

そのため、本書全体がひどく大きな話に見えるかもしれない。

だが、編纂者の立場から一言だけ言っておけば、そのかなりの部分は、もっと小さく、もっと俗っぽく、もっと身近なところから始まっている。

そして、そういう始まり方をしたからこそ、かえってここまで面倒な話に育ってしまったのだとも言える。

本書は、その面倒臭さを、必要以上に整えずに残している。

読者には、その点も含めて付き合っていただければと思う。

編纂者 神代 理紗

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