かつて、日本の工業製品には、単なる機能や性能とは別の、ある種の気配が宿っていたように思う。
それは必ずしも派手なものではない。
むしろ、過剰な装飾を避け、素材と加工と構成の確かさによって静かに立ち現れる威厳に近い。
質実剛健という語は、いまではしばしば古びた美徳のように扱われるが、少なくとも私は、その言葉がなお現実の手触りを持っていた時代を知っているつもりでいる。
そして、そのような工業的美意識の一端を具体的に体現していたものの一つが、Abeeという名の製品群であった。
Abeeを単なるPCケースのブランドとしてのみ捉えるなら、本書の企図は最初から過剰に見えるだろう。
しかし、工業製品というものは、ときにその実用品性を越えて、時代の感覚や設計思想や美意識の凝縮体となる。
削り出しの感触、金属の冷たさ、過剰ではない重み、沈黙のうちに伝わる整い方。
そうしたものは、数値化しにくいにもかかわらず、確かに人の記憶へ残る。
問題は、それらが失われたあとである。
製品が終売し、継承者が減り、設計思想を語れる者がいなくなったとき、私たちは何をもってその不在に向き合うのか。
この問いは、単なる懐古趣味ではない。
むしろ、日本の技術継承者問題、ものづくりの断絶、そして失われつつある工業文化の記録方法そのものに関わる。
本書は、そのような問題意識から始まった。
少なくとも、最初はそうだった。
終売されたAbeeをめぐる喪失感に触れたとき、私は、失われた工業製品がどのように記憶され、どのように語り継がれうるのかに強い関心を抱いた。
製品が失われたあとに残るのは何か。
図面か、写真か、使用痕か、包装材か、あるいはそれを惜しんだ人間の言葉か。
その問いを追っていくうちに、私は次第に、技術と信仰とのあいだにある奇妙な接点へ引き寄せられていった。
失われたものほど神話化されやすい。
届かなかったものほど、かえって強く語られる。
そして、失敗や勘違いでさえ、時間が経てば、一つの系譜として読み替えられてしまう。
さらに個人的には、いったん失われたものと思っていたAbeeの名が、ある時ふと再び動き出したらしいと聞かされたことも大きかった。
その知らせを最初に持ち込んだのは編纂者たる理紗であり、私はそこで、不在として閉じかけていたはずの工業的記憶が、別のかたちで再起動しうるのではないかという妙な高揚を覚えた。
おそらく本書のもっとも厄介な部分は、その瞬間に始まっている。
一度終わったはずのものが再び名を持つとき、人はしばしば、記録ではなく神話を書きたくなるからである。
本書に記されるのは、そのような衝動の延長線上にある、一つの仮構的試みである。
ここには、実在の製品名を想起させるものもあれば、明らかに誇張された装置もあり、資料らしく見える断章もあれば、後代の思いつきとしか言いようのない解釈もある。
その意味で、本書は純粋な意味での技術史ではないし、また純粋な意味での創作とも言い切れない。
むしろ、失われた工業美学への執着が、どこまで記録を神話へ近づけうるのかを試みた、一つの宗教史的仮構である。
私はその試みを、単なる悪ふざけとして切り捨てる気にはなれなかった。
なぜなら、人は何かを本当に惜しんだとき、たいてい少し宗教的になるからである。
ロストテクノロジーとは、単に技術そのものが失われることではない。
それを惜しみ、語り、意味を与える作法までもが失われることを含んでいる。
もしそうであるなら、この奇妙な一冊もまた、失われゆく作法に対する一つの応答たりうるかもしれない。
以下に続く記述が、どこまで史実であり、どこから神話であるかは、読者の判断に委ねたい。
ただ一つ言えるのは、ある終売品の不在と、その名の思いがけない再起動を前にして、私の中で一つの妄想が膨らみ、それがやがて一つの神話の形式を取りはじめたということである。
そのこと自体を、私は必ずしも恥じていない。
むしろ、そうでもしなければ手放せないものが、この世には確かにあるのだと思う。
著者 中野人志